納棺夫日記を手にして

「おくりびと」がアカデミー賞を獲って、ローカルの映画館で見ることができるた。
これまで、自分も数十人の人をおくって来たのだが、きちんと向き合ってはいなかったと感じた。

ずいぶん前にビデオで「お葬式」という映画を見た。故伊丹十三監督が、ラジオ番組で普段見聞きしない「葬式」のドキュメンタリー風な映画を撮ったというような話をしていたのを聴いた。いろいろなシーンがあったので、細かいことは別として、葬式をドキュメンタリー的に描いているのは納得した。

映画はすべてドキュメンタリーだと思う。※アニメは別かな
映画の中にある、生老病死は、舞台演劇などのように真似ではなく、本物そのものに見える。
舞台演劇の中で、たとえば殺人を演じても、実際にそれが起きることはない。あったら大変だ。だから、観客はどんなシーンも安心して立ち合うことができる。
映画は、たとえば武士の立会いのシーンがあったとしたら、腕が切り落とされ、首が飛ぶ、そのものを描写する。しかし、あくまでもスクリーンの中でのことなので、これもまた、安心して観賞することができる。

さて、「おくりびと」は、ドキュメンタリー的といえば、納棺という仕事をする側から描いたものである。
一般のひとは経験することのないものが見えてくる。納棺師の側から事象に立ち合うことになる。
その感想は、また別の機会に。

さて、その「おくりびと」の原作である「納棺夫日記」を手にしたのだが、小説の場合、書き手つまり映画で言えば主人公の心の中から事象に立ち合うことになる。ここでも、読む自分がその書き手になるのではないから、主人公が味わう四苦八苦が読み手に苦痛を与えることはない。安心して読むことができる。

実は「納棺夫日記」のテーマについて踏み込むことも今回はめざしていなくて、真の真、自分自身のドキュメンタリーとの関係について書こうと思っている。

自分自身の暮らし、仕事や学校、家庭、仲間や家族、夫に妻に、恋人、住んでいる場所。
映画や演劇は、その場を去ることができる。いやになれば、途中で逃げることもできる。
しかし、自分自身の現実は、いつも自分とともにある。
その場を逃げれば、逃げた先が現実となる。

さて、「納棺夫日記」の中に、目的地のことを考えることより、行き方のことばかりが語られる、というような部分がある。
目的地とは、例えば「京都」へ行くこと、行き方とは、どのルートを通るか、車か新幹線か、切符のことである。
この場合の目的地とは「死」である。人は誰でも必ず死ぬ。金も地位や名誉もいっさい捨てて、家族や兄弟や恋人と別れることになる。
なのに、金や地位や名誉にこだわり、周りも人といさかいを繰り返し、明日はない自分を苛む。
※死んだ後の霊魂のはなしではない。
ゴールである「死」から、生を見させてくれる「納棺夫日記」、自分のことを見て、何もかも「許して」あげたいと思う。
喫煙も禁煙もどちらも自分の命のドラマ、それはそれで愛しいくはないか、悲しくはないか、そんなことを思う。



Category: 今日のコラム
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