八百長と人情は同じではない!

相撲界は腐っている。
相手が負け越して番付が下がり、生活に困窮することへの同情から勝ちを譲るということは、何だか人情噺のようで納得してしまいそうだが、番付が下がり生活に困窮することと、勝負とは別の問題である。

大相撲は社会で合意された約束の中にある。
人情で負けたり勝ったりすることは許されない。

しかし、力が入らず(無気力相撲とはよく言ったものだ)負けることがあるかも知れない。
だが、不正の責任は免れない。
それは合意された約束(ルール)だからだ。

強姦犯の理屈も良く似ている。
服装とか、場所とか、つい欲情して強姦した。
強姦犯は欲情させられたと言い訳をする。
そういうものかも知れないが、しかし、その行為の責任は免れない。

サンデル先生の命題を思い出す。
海で遭難し、生き残るために、人を殺して食べたという実際にあった事件のことだ。
漂流するボートには四人の男が乗っていた。
15日間食べるものがなく、尿を飲んでいた。
海水を飲んで弱った少年を、残りの三人は殺して食べることを協議する。
その後、救出されたが、その殺人は裁判にかけられた。

人を殺して食べることしか、生き残る方法がなかったとき、人はそのようなことしてしまう。
人とはそういうものかもしれない。しかし、罪は問われなくてはならない。

この社会に聖人君子など一人もいない、だから誰も責められない。
というのではなく、自分がそのようなことをしたら、責任を問われるという覚悟が必要だ。

これは、親鸞聖人の「歎異抄」にある、悪人正機説にもつながる。
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
人が、過ちを犯すには、いろいろな縁があってのことだと思う。
遭難して、食べるものが何一つない状況も、また縁である。
だから、罪を犯してしまう、といって、何をしても良いというものではない。
罪を犯してしまった状況には同情することができる、がしかし、罪は罪として問われることは免れない。罪を意識して贖罪の境地に至れば、往生(極楽へ行ける)できる。縁あって大罪を犯さずに大過なく生きてきた善人は、そのような境地に至ることはないが、阿弥陀様の本願により往生できるとしたら、罪を犯した悪人こそは、誰よりも先に往生させていただける。
南無阿弥陀仏

あるいは、ドストエフスキーの「罪と罰」はどうだろうか。
金貸しの老婆に鉄槌を下ろしたラスコールニコフは、全て考え抜いた末にしたと正しいことだと考えるが・・・、まあ、いろいろ考えさせられる。

八百長は相撲界で生きていく方便だと思う。
八百長をしなくても相撲が取れて、からだ一つで生きていけるように、相撲の世界は成長してもらいたい。
相撲道なのだから、道を問い直してもらいたい。
いつまでも待っていたい。


Category: 今日のコラム
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