30代の30数パーセントが「うつ」で休職

昨日のNHK夕方の関東地方のニュースで特集がありました。

ぼくは「うつ」になることを命を守るための緊急避難と考えています。
働きすぎてオーバーヒートを起こしたのです。最近のエンジンは冷却の仕組みが良くできていて、あまりオーバーヒートを起こしません。しかし、上り坂をフルパワーで何処までも行けば、間違いなくオーバーヒートします。

ガソリンを気化させてシリンダーに送り込みますが、シリンダーあまりに加熱していると、タイミングに関係なく燃焼してしまいます。これでは、タイヤを回すことができません。

しかし、しばらくのんびりと熱が下がるのを待てば、また再び動き出すことができます。
※実際は、オーバーヒートになりかかったとき、どれほど無茶をしたかによります。

ふつうは無理をしないものです。しないようにできています。苦しいからです。
しかし、この苦しみを越える、苦より恐ろしいものがあります。それは、共同体や組織から排除されることです。
人は人の中でしか生きていけません。家族や仲間、友人、恋人が必要です・そして会社や学校などに所属しなくては生きていけない。

それを逆手に取って、人を脅迫する、家族、兄弟、生みの親さえも、会社の上司や同僚、学校の教師やクラスメートなどなど・・・

しかし、生きていける場所がそこになくてもほかにあります。
このことに気がつくまで、ぎりぎりの苦しみと恐怖にとりつかれる。
「うつ」で会社にいきたくなくなったら、それは新しい生き方へのスターへとなのです。
失恋が新しい出会いのための要件のように、離婚も失職も別離も、新しい人生のドラマのはじまりです。
そのことに思い至るまでつらいかも知れません。

この番組は続きが翌日あって、30代の自殺者数が7000千人を超えているという実態をレポートしていました。

死にたくなることと、命を守るために「うつ」になることの関係は、「うつ」になってしまえば、脳はオーバーヒートして死にたいという気力も飽和してしまいます。オーバーヒートが少し治まったときに、苦悩がよみがえって来ます。このとき、死にたくなるのだと思います。「うつ」というのは一過性の状態なのです。

死にたくならないためには・・・
30代の若者ならば、夢や希望が破れてこそ、成長して大人になります。それまでの夢は幼いころに持った夢です。多くの若者は現実の中で打ち破れることになります。それでも、新しい夢を見つけて先に進むのが若者です。現実に夢が破れることは、たとえると失恋のようなものです。本当の配偶者に出会うためには、何度でも失恋しなくてはなりません。失恋の仕方、失恋の覚悟、元に戻すと、夢の破れ方に、人生を投げ出してしまう考えに取りつかれているのではないかと思います。認知療法でいうと、全てか無かの思考となるかもしれません。別な言い方ならば、視野が狭いという事かもしれません。不幸なことです。
人生は思う通りにならないものです。それが苦悩の原因です。生まれる場所や家族、性別など、境遇を選んで生まれることはできません。鬼のような親やけだもののような兄弟の中に生まれる人もいる。病気になったり、経済的な困難に遭遇したり、別離もあるでしょう。しかし、それは幸せドラマのお膳立てストリーの味付けなのです。投げ出したくなるような自分を超えていくことがこのドラマの面白さなのです。それが分かると人生はどんどん開かれていきます。

NHKではつづいて「ひきこもり」を放映していました。

いずれにしても「自分を守る」ということが根底にあると思います。
だらだらとごろごろと仕事もせずに怠けているのは楽のように見えるかもしれません。あるいは、食べさせてくれる人がいるから引きこもっていられると言う人もいるでしょう。
それはそれとして、「うつ」は命を守る最後の砦ですが、引きこもりは籠城という自己防衛の戦術です。
問題は、いつも見えなくされてしまうのですが、なぜ引きこもりをしなくてはならないかであって、引きこもりが問題なのではありません。

もうすこし、つづくことに

裸で生まれて来て、裸でこの世を去る

この世に来たとき、生まれる家を選んで来た方はいますか?
あるいは、手の中にダイヤモンド金塊を持って生まれた方は?

今生きている、家や車、連れ合いがいて子供がいて、家族がある。
ペットがいるかも。
銀行にはたくさんの預金があるかも。
たくさんの土地を持っているかも。
努力や幸運がそれらの富を産み出してくれました。

この世を去るとき、それらのすべてを置いて行かなくてはなりません。
それが分かっているのに、あくせくと働いて、苦しみ悩んで生きている。

鳥は空を飛ぶために、ほんの少ししか食べることができません。
その時その時に必要なだけ食べて多くを欲しがりません。
自然界に生きる動物は、いま食べることに必死ですが、明日の食べ物について悩むこともない。

人間だけが、先の先まで心配します。
起きていないこと、起きないかもしれないこと、そして何と、わが身がこの世から去った後のこと・・・
先の先まで心配でなりません。

横道にそれますが
今日の進化論は仮想の論理ではなく、ほぼ真実となり、哲学に格上げになりました。
今生きているすべての生き物は、適者生存の進化論の結果です。
この先の先まで心配する人間は進化という事実そのものです。
これまでの進化の答えは自分でもあるのです。

さて、本題に戻って・・・
つづく

発情フェロモン

先日、動物病院の女先生と話をする機会があった。
世は、春、桜咲く春、そして発情の季節だ(ったかな、春先らしいから)。

人間社会は男性中心社会だから、男根を誇り、それに女性はメロメロになる、というような話がある。
男の臭い、男のしぐさ、女性はそれで発情する?

動物の世界では、メスが発情すると、オスがそれに引き寄せられていくそうだ。
オスの発情は、メスの発情によって起こる、メスによっていつでも発情できるのがオスだという。
動物の世界で、交尾を「かける」というような言い方をするが、かけあわせるということかと思う。
発情したメスにオスを近寄せると、ほどなく交尾になる。

そのとき、メスはオスを発情させるフェロモンを発散するらしい。

ところで、夜の繁華街、男たちは人造フェロモンをふりまいた女性に引き寄せられる。
そのフェロモンというのは、いわば香水のようなものだったりするとか・・・
最近は、男も香水をつけている。
これは、誰を相手のフェロモンになるのだろう。

認知療法では、理性的な判断が問題になる。
フェロモンも感情を引き起こす事象のひとつだろう。
これが、快く受け入れられる場合は、春、春、この世の春は輝きに満ちている。
しかし、これが歪を生じる場合、春はうっとうしい季節なのかも知れない。

人類に限らず、生きるものは、両性の出会いというドラマを繰り返しながら、子孫を残してきた。
その中で、失恋するのは人間に限らないが、人間はまたのチャンスというふうに考えられずに、すっかり落ち込むオスもいる。
絶対の人と、交尾の相手とは、離れたり近づいたりする、命のありようなのだから、と考えても振り回されるかな。
問題は、絶対という考えであることに気がつけば、広く見えるようになる。
・・・続くかも?

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悲しさ

悲しい、哀しい、かなしい
心のきしみ、隙間風、もののあわれ、※※しいは、形容詞です。心のようすです。

ふつう、感情のもとになる事象があるというふうに考えます。
出来事があって、悲しい感情が起きる。
悲しい出来事、というようにも表現します。

認知心理学的には、事象から引き起こされる感情は、ときに認知のゆがみによって心に問題を起こすとされています。
感情が、問題を起こす場合に認知のゆがみと考えます。
認知のゆがみというとき、心に問題を起こすことと、セットになっています。
心に問題を起こさないことは、どのような感情も、そのままでいいわけです。
問題を起こす感情とは、抑圧感情というものです。自分を責め苛む感情です。

前にも書きましたが、感情と抑圧は、そのままでは心が暴走して生命の危機に瀕するとき、脳が起こす防衛手段です。
恐怖や不安がそうです。

悲しい出来事、というのは悲しいと感じる心があるから感じることです。
それが、心に重圧となって自分を抑圧するとき、心に問題を起します。

悲しみは自分で癒すことができます。暮らしの時間が味方してくれます。
悲しむことは良いことです。大切なことは悲しみには、悲しみ方があるということです。
悩みや不安、いろいろな感情は生きていくために大切なものです。
しかし、悩み方、不安の受け止め方があるということです。

禁煙も、いろいろな感情を野放しすると、後から大変なことになります。
禁煙至上主義の方は、荒療治が平気です。矢でも鉄砲でも来いなどという気分になります。
そんな方は、実は生活一般にそのような高圧的な考え方があり、周りに疎んじられます。
押し渡る生き方も、いずれ終わりが来て、すべての清算が待っています。
早く気がつけば、気がついた分だけ残りが楽に生きて行けます。

とってもむずかしい話

ということは、軽い話ということです。
ブログオーナーの性格がねじれ気味なので、お許しを。

先日、藤沢周平原作の映画「花のあと」を見てきました。
もう少し感動が欲しかったと思いながらも、後からほのぼのした元気の出る映画でした。
ヒロインの北川景子は何ともうるわしく、監督の思いもあるのでしょうが、良く演じていました。(パチパチ)
藤沢作品でおなじみの「海坂藩」、山形県鶴岡市(庄内)を訪ねたことがあります。
江戸時代、庄内は米どころ、そして酒田は大阪と肩を並べる商都でした。
豪商いれば、悪徳代官も、小役人に、百姓、町娘に、武家の娘、などなど、多彩な人々の暮らしがありました。

もともと小説はドキュメントもとに書かれた物です。
あるところで起きた事を、そのまま伝えることがドキュメントなのですが、それが人を伝わるうちに、あることないことに膨らんでいきます。
事件が大きいほど、いるはずのない人や架空の場所など、あるいはずのないことも加えられて、もとのドキュメントよりも充実していきます。
人の気持が加えられていくのです。

ということで、藤沢作品が映画になり、北川景子が演ずるまでに、いろいろ人の思いが加えられていきます。

ドラマ性ということでは、悠々自適、人畜無害、高潔明大、などでないことの原則です。
自分の複雑な心と、裏表に響きあうのが、ドラマなのだと思います。

禁煙を(とこのブログらしく)どんな風に演じていますか?
ぼくはときどき眺めています。
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